ヴァンサン・アンベール著『僕に死ぬ権利をください』を読んで
2017 / 05 / 09 ( Tue ) 06:01:10
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 今朝の東京は晴れです。

 休み明けは気だるいです。

 おはようございます、kakisakasanです。


 ええっと、今日はヴァンサン・アンベール著『僕に死ぬ権利をください』の感想を書きたいと思います。

 この本の初版が発行されたのは平成16年。

 私が買ったのは初版本なので、今から13年も前に買ったことになります。

 そんな昔に買った本の感想をどうして今頃になって書くのかと言いますと、買ったのはいいがなぜか読む気になれず、ずっと放置していたのですが、百田尚樹さんが書かれた『永遠の0』の感想を書くことがきっかけとなり、この本の感想も書きたいと思ったからなんです。

 感想を書く目的は「百田尚樹著『永遠の0』を読んで」でも書いたように、小説活動の一環として著名な作家の作品の感想を書くことで、読書好きな人の目を惹き、自作の小説を売り込むためです。

 しかし、今回に限っては、理由はそれだけではありません。

 私は幼少の頃から体が弱く、それ故に「死」に対して漠然とした関心があったと思います。

 30歳になる前くらいだったでしょうか、私はどうしてこの歳になるまで生きてこられたのだろうと真剣に考えたことがあります。

 戦前・戦中、戦後間もない頃に生まれていたら、私は間違いなく腸チフスか結核に罹って死んでいました。

 大抵の人は30歳頃にそんな事は考えないと思います。

 ですから「死ぬ権利」という言葉を目にしたとき、私は読まなければいけないと思いました。

 ただ、実際はすぐに読めなかった。

 それはきっと現実を直視出来なかったからだと思います。

 読まなければと思いながら遠ざけていた…

 でも、読書感想を書くということがきっかけとなり、また「死」を実感する歳になったという現実が私に心構えを持たせたのだと思います。

 この本の感想を書くことは、自作の小説を世に広めるための活動だけでなく「死ぬ権利」を真剣に考え、実践する時代に突入したことを訴えるための、これは義務だと私は思ったのです。

 『僕に死ぬ権利をください』という著書は、小説ではなく実話です。

 著者であるヴァンサン・アンベールは二十歳の若者で、ある日彼は交通事故に遭遇します。

 その後9ヶ月の長い昏睡状態から目覚めたときは、全身麻痺の状態でした。

 病院からは「助かったとしても植物状態」になるだろうと言われました。

 この本を読み進めてすぐ、私はある映画を思い出しました。

 映画のタイトルは『ジョニーは戦場へ行った』。

 20代のとき池袋の映画館で友達と一緒に見ましたが、見終わった後はただ胸が重く溜息しか出ませんでした。

 この本の「第5章 波紋」でも『ジョニーは戦場へ行った』あの映画そのままだ、と言っています。

 ヴァンサンは、しかし、医師の見解に反して意識を取り戻します。

 母の愛情と執念が彼の意識を取り戻させたのです。

 しかし、ヴァンサンの本当の地獄はここから始まります。

 動かせるのは右手の親指だけ。

 視力はほとんどない。

 聞くことは辛うじて出来る。

 寝返りを打つことも鼻の頭を搔くことも、全て誰かに頼らなければならない。

 私もある病気を患って一週間ほど入院したことがあります。

 全身麻酔から目覚めた後は、切開した箇所ももちろん痛かったのですが、背中全体にのし掛かる鈍痛…これが本当に辛かった。

 寝返りを打とうにも点滴の管が邪魔、麻酔がまだ完全に抜けきっていないので、自由に体を動かす事も出来ない。

 それでも背中の鈍痛をなんとか解消したくて、全身に力を込めて寝返りを打ちました。

 わすが一晩の経験ですが、もう二度と体験したくないことです。

 それよりももっと辛い状態をヴァンサンは3年も味わうことになるんです。

 肉体的にも精神的にも、辛いという言葉だけでは言い表せない、まさに無間地獄だったと思います。

 最終的に彼は安楽死を望みます。

 しかし、彼の国フランスではそれを認めていません。

 ですから、彼は時の大統領であるシラクに手紙を送ります。

 安楽死を認めて下さいと…

 しかし、シラクはついに耳を傾けることはしませんでした。

 安楽死の問題はどの国でも物議を醸します。

 迂闊に触れたら政治家の政治生命を絶ちかねない。

 だから、シラクは沈黙を守ったのだと私は思っています。

 では、最終的に、彼はどうなったのか?

 それはこの本を読んで頂けたらと思います。

 この世を去るということは、まだこの世にいる身内、友人・知人と永遠に別れることを意味します。

 それは辛いことです。

 また、死そのものに対する恐怖もあります。

 この世から自分の存在が消える恐怖。

 しかし、誰もがいずれ死を迎えます。

 ならば、出来るだけ納得のいく死を迎えたいと思うのではないでしょうか。

 もし、私がヴァンサンと同じ立場だったら、同じ事をしたと思います。

 自らの意志で死を選択する。

 それが最後の最後に出来るこの世に存在したという証しであり、彼にとっての納得のいく死であったはずです。

 ヴァンサンはこの本の中で「僕のような状態の人間を生かし続けるのはひとつの犯罪」と言っています。(p13 事故)

 シラクは彼のこの言葉を目にしたのでしょうか。

 この本の解説では、日本は安楽死を巡る司法判断で世界に先駆けた国だと言っています。(p195 解説)

 1962年名古屋高裁が示した判決は、安楽死させた被告が免責される要件として次の6つを挙げました。

 ・患者は不治の病で、死が目前に迫っている。
 ・患者の苦痛が甚だしく何人も見るに耐えない。
 ・患者の苦痛を和らげるのが目的。
 ・患者の意識が明瞭な場合には、本人の要請や承諾がある。
 ・原則として医師が行う。
 ・倫理的方法で行う。

 それから33年後、横浜地裁が示した判決は、次の4つを挙げました。(p196 解説)

 ・患者に耐えがたい肉体的苦痛がある。
 ・死期が迫っている。
 ・苦痛を除去・緩和すための代替手段がない。
 ・患者が意思を明示した。

 名古屋高裁判決を更に推し進め「患者の意思」を絶対条件とした点がこの判決の最大の特徴です。

 今、日本は超高齢化社会を迎えています。

 その結果、老老介護が激増し、看病に疲れたと言って殺害に及ぶ事件が後を絶ちません。

 先月は70代と90代の姉妹が電車に飛び込んで自殺をしました。

 安楽死は飽くまで病人を対象としていて、生きるのが困難な高齢者は対象とされていません。

 仲の良い夫婦だったはずが老老介護の末、伴侶を殺す。

 手錠を掛けられ、拘置所に入れられ、取り調べを受ける。

 最終的には執行猶予付きの判決が言い渡されるのでしょうが、それでも犯罪者として扱われることに変わりはない。

 それがどんなに苦痛で屈辱なことか?

 裁く側はその哀しみを考えたことがあるのか、法律を作成・制定する政治家は考えたことがあるのか?

 ヴァンサンの提示した問題はフランスに衝撃を与えました。

 フィヨン社会相は「法改正への議論を始めるべきだ」と訴えました。

 しかしラファラン首相は「生命の問題は政治が扱うべきでない」と言いました。

 全く以て間違ってますよね。

 政治が扱わなければ誰がこの問題を解決出来ると言うんです?

 日本には国民皆保険制度があり、年金制度があり、生きていくための制度は充実しているのに、誰も死に対しては責任を取ろうとはしない。

 生と死は表裏一体、同等に扱うべきです。

 死は敗北でないんです。

 それなのに、死に対しては誰もが見て見ぬふり。

 生きるための制度は国が整えます、死の始末は勝手にやって下さい。

 そんな馬鹿な話はないでしょ。

 病で苦しむ者、老いて生きる力を失った者…

 そのような人達に「長い間ご苦労されましたね。どうか安らかに眠って下さい」というのが慈しみのある心だと思います。

 ただ、それでも、世の中には反対する人がいると思います。

 そんな人達は安楽死の制度が確立されても、それを使わなければいいだけだと思います。

 「私はどんなに体が不自由になろうとも、老いて生きるのが苦しくなっても、安楽死制度は使いません」と署名捺印すれば、それでいいのではないでしょうか。

 ヴァンサンは「死ぬ権利」を率直に訴えています。

 彼の訴えを非難する者は、五体満足な人間の傲慢だと思います。

 この本を読んでヴァンサンの苦しみが理解出来ない人は、一度『ジョニーは戦場へ行った』をご覧になればいいと思います。

 「死ぬ権利」が人生の選択肢として受け入れられますように。

 
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