文豪ストレイドッグスシリーズに向けて
2017 / 05 / 13 ( Sat ) 09:08:54
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 今朝の東京は雨です。

 空気が冷たいです。

 おはようございます、kakisakasanです。


 kakisakasanはこれまで『永遠の0』『騎士団長殺し 顕れるイデア編』『僕に死ぬ権利をください』と三作の読書感想を書ました。

 で、次は何を書こうかなと思って考えついたのが、文豪ストレイドッグスシリーズ。

 ところで、みなさんは『文豪ストレイドッグス』というアニメをご存じですか?

 ウィキペディアフリー百科事典『文豪ストレイドッグス』よりますと、

 原作:朝霧カフカ、作画:春河35による日本の漫画作品で『ヤングエース』2013年1月号より連載中とのこと。

 お話は、太宰治、芥川龍之介といった文豪がキャラクター化され「人間失格」「羅生門」とそれぞれの作品の題名が付された異能力を用いて戦うアクション漫画なんです。

 この作品が生まれたきっかけは「文豪がイケメン化して能力バトルしたら絵になるんじゃないかと、編集と盛り上がったから」と原作者の朝霧さんは述べています。

 ただね~

 何と言うのかなあ~

 本当にそれだけかなあと…

 まあ、言ってしまえば、小説って売れてないですからね。

 芥川賞・直木賞ですら、世間の人はそんなに注目しないですし、その上にして読んでもらうとなると…

 売るのはほとんど不可能に近いと言うのが現状だと思います。

 そこで考えたのが、アニメの力を借りること。

 文豪ストレイドッグスはまさにそんな作品だと思います。

 この作品を見れば、過去にどんな文豪がいたのか、その名前と作品名を知ることが出来ますし、彼等の小説のみならずこれでアニメ自体も人気が出たら一石二鳥ですからね。

 出版社側からすれば、何とか火が着いてほしいと思っているでしょうし、おそらくそれなりに上手くいっていると思います。

 だから、文庫本を置いてあるコーナーに行きますと、文豪ストレイドッグスの帯が付けられた小説がたくさんありますよ。

 と言う事で、kakisakasanもこの流れに便乗しようかなと思い、それで文豪ストレイドッグスシリーズを思いついたわけです。

 さて、第一弾は誰にしましょうか。

 候補は三人ほどいるのですが…

 
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ヴァンサン・アンベール著『僕に死ぬ権利をください』を読んで
2017 / 05 / 09 ( Tue ) 06:01:10
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 今朝の東京は晴れです。

 休み明けは気だるいです。

 おはようございます、kakisakasanです。


 ええっと、今日はヴァンサン・アンベール著『僕に死ぬ権利をください』の感想を書きたいと思います。

 この本の初版が発行されたのは平成16年。

 私が買ったのは初版本なので、今から13年も前に買ったことになります。

 そんな昔に買った本の感想をどうして今頃になって書くのかと言いますと、買ったのはいいがなぜか読む気になれず、ずっと放置していたのですが、百田尚樹さんが書かれた『永遠の0』の感想を書くことがきっかけとなり、この本の感想も書きたいと思ったからなんです。

 感想を書く目的は「百田尚樹著『永遠の0』を読んで」でも書いたように、小説活動の一環として著名な作家の作品の感想を書くことで、読書好きな人の目を惹き、自作の小説を売り込むためです。

 しかし、今回に限っては、理由はそれだけではありません。

 私は幼少の頃から体が弱く、それ故に「死」に対して漠然とした関心があったと思います。

 30歳になる前くらいだったでしょうか、私はどうしてこの歳になるまで生きてこられたのだろうと真剣に考えたことがあります。

 戦前・戦中、戦後間もない頃に生まれていたら、私は間違いなく腸チフスか結核に罹って死んでいました。

 大抵の人は30歳頃にそんな事は考えないと思います。

 ですから「死ぬ権利」という言葉を目にしたとき、私は読まなければいけないと思いました。

 ただ、実際はすぐに読めなかった。

 それはきっと現実を直視出来なかったからだと思います。

 読まなければと思いながら遠ざけていた…

 でも、読書感想を書くということがきっかけとなり、また「死」を実感する歳になったという現実が私に心構えを持たせたのだと思います。

 この本の感想を書くことは、自作の小説を世に広めるための活動だけでなく「死ぬ権利」を真剣に考え、実践する時代に突入したことを訴えるための、これは義務だと私は思ったのです。

 『僕に死ぬ権利をください』という著書は、小説ではなく実話です。

 著者であるヴァンサン・アンベールは二十歳の若者で、ある日彼は交通事故に遭遇します。

 その後9ヶ月の長い昏睡状態から目覚めたときは、全身麻痺の状態でした。

 病院からは「助かったとしても植物状態」になるだろうと言われました。

 この本を読み進めてすぐ、私はある映画を思い出しました。

 映画のタイトルは『ジョニーは戦場へ行った』。

 20代のとき池袋の映画館で友達と一緒に見ましたが、見終わった後はただ胸が重く溜息しか出ませんでした。

 この本の「第5章 波紋」でも『ジョニーは戦場へ行った』あの映画そのままだ、と言っています。

 ヴァンサンは、しかし、医師の見解に反して意識を取り戻します。

 母の愛情と執念が彼の意識を取り戻させたのです。

 しかし、ヴァンサンの本当の地獄はここから始まります。

 動かせるのは右手の親指だけ。

 視力はほとんどない。

 聞くことは辛うじて出来る。

 寝返りを打つことも鼻の頭を搔くことも、全て誰かに頼らなければならない。

 私もある病気を患って一週間ほど入院したことがあります。

 全身麻酔から目覚めた後は、切開した箇所ももちろん痛かったのですが、背中全体にのし掛かる鈍痛…これが本当に辛かった。

 寝返りを打とうにも点滴の管が邪魔、麻酔がまだ完全に抜けきっていないので、自由に体を動かす事も出来ない。

 それでも背中の鈍痛をなんとか解消したくて、全身に力を込めて寝返りを打ちました。

 わすが一晩の経験ですが、もう二度と体験したくないことです。

 それよりももっと辛い状態をヴァンサンは3年も味わうことになるんです。

 肉体的にも精神的にも、辛いという言葉だけでは言い表せない、まさに無間地獄だったと思います。

 最終的に彼は安楽死を望みます。

 しかし、彼の国フランスではそれを認めていません。

 ですから、彼は時の大統領であるシラクに手紙を送ります。

 安楽死を認めて下さいと…

 しかし、シラクはついに耳を傾けることはしませんでした。

 安楽死の問題はどの国でも物議を醸します。

 迂闊に触れたら政治家の政治生命を絶ちかねない。

 だから、シラクは沈黙を守ったのだと私は思っています。

 では、最終的に、彼はどうなったのか?

 それはこの本を読んで頂けたらと思います。

 この世を去るということは、まだこの世にいる身内、友人・知人と永遠に別れることを意味します。

 それは辛いことです。

 また、死そのものに対する恐怖もあります。

 この世から自分の存在が消える恐怖。

 しかし、誰もがいずれ死を迎えます。

 ならば、出来るだけ納得のいく死を迎えたいと思うのではないでしょうか。

 もし、私がヴァンサンと同じ立場だったら、同じ事をしたと思います。

 自らの意志で死を選択する。

 それが最後の最後に出来るこの世に存在したという証しであり、彼にとっての納得のいく死であったはずです。

 ヴァンサンはこの本の中で「僕のような状態の人間を生かし続けるのはひとつの犯罪」と言っています。(p13 事故)

 シラクは彼のこの言葉を目にしたのでしょうか。

 この本の解説では、日本は安楽死を巡る司法判断で世界に先駆けた国だと言っています。(p195 解説)

 1962年名古屋高裁が示した判決は、安楽死させた被告が免責される要件として次の6つを挙げました。

 ・患者は不治の病で、死が目前に迫っている。
 ・患者の苦痛が甚だしく何人も見るに耐えない。
 ・患者の苦痛を和らげるのが目的。
 ・患者の意識が明瞭な場合には、本人の要請や承諾がある。
 ・原則として医師が行う。
 ・倫理的方法で行う。

 それから33年後、横浜地裁が示した判決は、次の4つを挙げました。(p196 解説)

 ・患者に耐えがたい肉体的苦痛がある。
 ・死期が迫っている。
 ・苦痛を除去・緩和すための代替手段がない。
 ・患者が意思を明示した。

 名古屋高裁判決を更に推し進め「患者の意思」を絶対条件とした点がこの判決の最大の特徴です。

 今、日本は超高齢化社会を迎えています。

 その結果、老老介護が激増し、看病に疲れたと言って殺害に及ぶ事件が後を絶ちません。

 先月は70代と90代の姉妹が電車に飛び込んで自殺をしました。

 安楽死は飽くまで病人を対象としていて、生きるのが困難な高齢者は対象とされていません。

 仲の良い夫婦だったはずが老老介護の末、伴侶を殺す。

 手錠を掛けられ、拘置所に入れられ、取り調べを受ける。

 最終的には執行猶予付きの判決が言い渡されるのでしょうが、それでも犯罪者として扱われることに変わりはない。

 それがどんなに苦痛で屈辱なことか?

 裁く側はその哀しみを考えたことがあるのか、法律を作成・制定する政治家は考えたことがあるのか?

 ヴァンサンの提示した問題はフランスに衝撃を与えました。

 フィヨン社会相は「法改正への議論を始めるべきだ」と訴えました。

 しかしラファラン首相は「生命の問題は政治が扱うべきでない」と言いました。

 全く以て間違ってますよね。

 政治が扱わなければ誰がこの問題を解決出来ると言うんです?

 日本には国民皆保険制度があり、年金制度があり、生きていくための制度は充実しているのに、誰も死に対しては責任を取ろうとはしない。

 生と死は表裏一体、同等に扱うべきです。

 死は敗北でないんです。

 それなのに、死に対しては誰もが見て見ぬふり。

 生きるための制度は国が整えます、死の始末は勝手にやって下さい。

 そんな馬鹿な話はないでしょ。

 病で苦しむ者、老いて生きる力を失った者…

 そのような人達に「長い間ご苦労されましたね。どうか安らかに眠って下さい」というのが慈しみのある心だと思います。

 ただ、それでも、世の中には反対する人がいると思います。

 そんな人達は安楽死の制度が確立されても、それを使わなければいいだけだと思います。

 「私はどんなに体が不自由になろうとも、老いて生きるのが苦しくなっても、安楽死制度は使いません」と署名捺印すれば、それでいいのではないでしょうか。

 ヴァンサンは「死ぬ権利」を率直に訴えています。

 彼の訴えを非難する者は、五体満足な人間の傲慢だと思います。

 この本を読んでヴァンサンの苦しみが理解出来ない人は、一度『ジョニーは戦場へ行った』をご覧になればいいと思います。

 「死ぬ権利」が人生の選択肢として受け入れられますように。

 
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村上春樹著『騎士団長殺し 顕れるイデア編』を読んで
2017 / 04 / 24 ( Mon ) 05:58:57
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 今朝の東京は晴れです。

 涼しいです。

 おはようございます、kakisakasanです。


 ええっと、今日は予てから言っていた村上春樹著『騎士団長殺し 顕れるイデア編』の感想を書きたいと思います。

 が、その前に…

 どんな内容や展開であっても、取り敢えず50ページは読んでみて、それで物語に乗っていけなければ、読むのを止める。

 これは主に長編小説を読む時の私の方針で、その心構えを持って、以前私は村上春樹著『ノルウェイの森』を読みました。

 今からもう30年近く前の事です。

 結論を言えば、私は読むのを止めました。

 その事が念頭にあったので、『騎士団長殺し 顕れるイデア編』も同様の事になるのかなあと思っていたら、やはりそうなりました。

 でも、今回は感想をブログに書くという目的がありましたので、物語に乗っていけなくても、辛抱して読み進めました。

 でね、どうして話に乗っていけないのだろうと考えながら読み進め、結果、私は二つの結論を出しました。

 ひとつは、無駄な文章、と言うよりは不必要な文章が多過ぎると言った方がより正確でしょうね、とにかく冗漫な文章が邪魔で仕様が無い。

 読んでいて、やっと物語に感情移入出来そうかなと思ったら、冗漫な分章が現れて、それが物語への感情移入を阻むんですよ。

 特に前半がひどいです。

 もうひとつは但し書きの()が多過ぎる。

 これを読む度に読書の気持ちを折られてしまって、本当に嫌になります。

 うっとうしいと思ってしまいます。

 だからね、これで思ったのは、この人は自分の書いた文章を声に出して読んだことがあるのだろうかということ。

 責任を持って文章を書くためには、声を出して読むことは必要不可欠です。

 作家はそれをすることによって、自分の培った文章の微妙なズレを整えることが出来るのであり、読者に対して分かりやすい文章を届けることが出来るのです。

 もし、村上春樹さんがきちんとそれを行っているのであれば、冗漫な文章が、但し書きの()が、いかに読書の進行を妨げているか分かるはずなんです。

 しかし、実際はそうではない。

 ということは、書くだけ書いて、後は編集者任せにしているんだと思います。

 いや、ひょっとしたら、編集者から出来るだけ長い文章を書いてくれと言われているのかもしれません。

 今や、ノーベル文学賞候補と言われる作家ですから、村上春樹と名が付くだけで売れると思います。

 そうだとすれば、出来るだけ値段の高い本を数多く売りたいと出版社は思うはずです。

 そのためには、長編小説が必要とされるわけで、だから、出来るだけ長い文章を書いてくれと編集者は言ったのではないか…

 だから冗漫な文章が多くなり、逆に物語の展開に必要な文章が書き込まれていないのではないか…

 その結果が税込みで1冊1944円もする本が上下巻で発売されることになった…と言う事ではないかと思います。

 まあ、テレビドラマにたとえるなら、視聴率が良いからという理由で、13話で完結させるはすが26話くらいまでになったという感じですね。

 ドラマの内容を追求するのではなく、視聴率という数字の追求、金の追求ということですね。

 そのやり方がこの小説にも当てはまるということなんでしょうか。

 では、肝心の物語の展開はと言いますと、これがねえ~

 主人公である『私』は肖像画を描いて生計を立てており、ある日、免色という名前の男から自身の肖像画を描いて欲しいと依頼されます。

 当時『私』は訳あって雨田具彦という著名な日本画家の家で暮らしていて、そこで『騎士団長殺し』というタイトルが付けられた一枚の絵を発見します。

 この小説のタイトルは『騎士団長殺し』。

 その絵を描いたのが、雨田具彦という著名な日本画家。

 しかも、彼はウィーン留学中に体験したことが切っ掛けとなって、洋画家から日本画家へと転身します。

 主人公の『私』も美大出身で絵を描いてます。

 となれば、雨田具彦の描いた『騎士団長殺し』を通して、主人公である『私』の何かしらの葛藤であったり、自身の行く末であったり、そのような事が書かれるのだろうと思いましたし、この展開であるならばそう書くべきだと思います。

 ところが…

 上巻のタイトルの正式名は『騎士団長殺し 顕れるイデア編』。

 このイデアとは、読めば分かりますが、はっきり言えば妖精とか精霊とかの類いのもので、それが描かれた騎士団長の姿を借りて『私』の前に顕れるんですよ。

 読んでる最中、私は本当に「はっ?」という声をあげました。

 何だ、この展開は?

 小さなおじさんを登場させてどうするの…

 シナリオを書く手法で箱書きと言うのがあります。

 登場する人物・場所・時間経過、伏線の張り方など、それらをどのようにして組み立てていくか…

 そして、その箱書きの礎となるのが、当然のことながら作品の内容。

 それを一人でも多くの人に分かりやすく、且つ作家の思いを伝えるために、箱書きをどのようにすれば良いのかを考える。

 シナリオライターが頭を抱えるのは常に箱書きをどうするかと言っても過言ではありません。

 それと照らし合わせて考えると、この小説には箱書きどころか、箱書きの核となる内容もないんですよ。

 前回、私は百田尚樹著『永遠の0』の感想を書きました。

 内容の好き嫌いは別として、この作品からは百田さんの情熱がとてもよく伝わって来ました。

 兵隊さんへの敬意、私利私欲しか考えていない官僚軍人に対する怒り、自分たちに都合の良い情報しか伝えないマスコミへの憤り…

 それに比べて『騎士団長殺し 顕れるイデア編』には何も無いんですよ。

 先にも言いましたように『騎士団長殺し』の絵に拘わることによって、主人公である『私』の何かしらの苦悩であったり、葛藤であったり、そういう事を書くべきです。

 そして、読者は『私』の人生と比較対照して、色々と考えさせられる。

 小説とは本来そういうものだと思います。

 旅の途中でいきなり変な女が寄って来てエッチしたり、人妻とエッチしたり、そんな挿話は全く必要がないです。

 官能小説を書くのが目的ではないはずです。

 おそらく、村上春樹さんはこの小説を書くに当たって、構成の核となるものを何も持たずに書いたのではないかと思います。

 もっと突っ込んで言えば、取り敢えず思い浮かんだことをつらつらと書いただけだと思われます。

 エッチする女性との間に何も葛藤がない展開は、つらつらと書くにはおあつらえ向きですものね。

 だから、前半は冗漫な文章がとても多く、後半はそこで書いた内容から伏線となりそうなものを適当に選んで書いた…

 スバルフォレスターの男なんて、その典型だと思います。

 『騎士団長殺し』の絵もそれに対する追求は行わず、「イデア」という訳の分からない妖精か精霊の類いを登場させて、何かもう無茶苦茶ですよ。

 あっ、それから…

 文章の横に「、」がやたらと付けられているのですが、これは一体何なのでしょうね。

 さも、その一文がこの小説において重要な箇所だと言わんばかりなんですが、こう言う手法はここぞという時に使って初めて効果があるのであって、めったやたらに使うと、ただうっとうしいだけです。

 ひねくれた見方をすれば、内容の無い文章だから、思わせぶりな事をすることで、見た目だけでも小説としての格を上げようとしている。

 そんなふうに思えてしまいます。

 ただし、これは『騎士団長殺し 顕れるイデア編』を読んだ感想であって、下巻である『騎士団長殺し 遷ろうメタファー編』の感想ではありません。

 ひょっとしたら『遷ろうメタファー編』では、凄い展開になっていて「なるほど、こう言う事だったのか」と思うかもしれません。

 でも、やっぱりもういいです。

 1944円も払ってまで読みたいとは思いません。

 でも、若干気にはなりましたので、ネット検索したらWikipediaに『騎士団長殺し』について書かれていました。 

 小説のあらましは後半に入ってもどうやら変わらないように思えました。

 また、著名な方の書評が抜粋して書かれていますが、肯定できそうな部分を見つけてそれらしく書いているのは、大したものだと思いました。

 と言う事で、村上春樹著『騎士団長殺し 顕れるイデア編』の感想はこれで終わりたいと思います。

 次回は小説ではなく、あるドキュメントについて感想を書きたいと思っています。

 それが終わりましたら、文豪ストレイドッグスシリーズを展開したいと思っています。

 それでは…

 ヾ(*´∀`*) byebye♪

 
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やっと『騎士団長殺し 顕れるイデア編』を読み終わったぞ
2017 / 04 / 20 ( Thu ) 05:55:17
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 今朝の東京は晴れです。

 ちょっと涼しいです。

 おはようございます、kakisakasanです。


 二週間と少しを掛けて、やっと『騎士団長殺し 顕れるイデア編』を読み終わりましたよ。

 疲れたあ~

 さあ、週末はその感想を書くわけですが…

 さて、どうしたものでしょうね。

 (。-`ω´-)ンー

 
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村上春樹著『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』の感想を書くため、読書に励みます
2017 / 04 / 06 ( Thu ) 06:00:12
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 今朝の東京は晴れです。

 穏やかな朝です。

 おはようございます、kakisakasanです。


 ええっと、タイトルにありますように現在村上春樹著『騎士団長殺し』の感想を書くために、せっせと読んでいます。

 『永遠の0』に次ぐ第二弾ということですね。

 多分、来週末には感想が書けると思いますので、興味のある方は是非読んで頂けたらと思います。

 と言う事で、本日のブログはお休み。

  ( ̄∇ ̄*)ゞ

 

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百田尚樹著『永遠の0』を読んで
2017 / 03 / 26 ( Sun ) 10:01:42
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 今朝の東京は雨です。

 寒いです。

 おはようございます、kakisakasanです。


 ええっと、今日は百田尚樹さんが書かれた小説『永遠の0』を読んだ感想を書きたいと思います。

 百田さんの書かれた最近の小説と言えば『幻庵』。

 どうしてそれを読まずに2006年に出版された本を今頃読むのかと言いますと、それには理由がありまして…

 まあ、一言で言えば売名行為ですね。

 著名な方に自作の小説を読んで頂き感想を言って頂ければ、それ自体が大きな広告になります。

 芸能人に読んでもらって、その感想をキャッチコピーにする手法ですね。

 では、なぜ百田尚樹さんの『永遠の0』なのかと言いますと、kakisakasanが百田さんに読んで欲しいと思っているのが同じ戦争を扱っている小説だから。

 タイトルは『Kill The Japanese』。

 東京大空襲にスポットを当てた、戦争に正義はないというテーマのもとに書いた小説です。

 百田さんも戦争に多大な関心があるからこそ『永遠の0』を書かれたと思います。

 その百田さんならきっと『Kill The Japanese』に関心を抱いて下さるだろうとkakisakasanは思ったわけです。

 しかし、これは飽くまでkakisakasanの一方的な考えであって、本当に読んで頂けるかどうかはまた別のことです。

 ですから、少しでも可能性を高くしたいと思って、百田さんのツイッターの返信に「百田さんの小説の感想を書きますので、私の小説の感想を書いて下さい」と先に伝えておきました。

 本当に図々しいお願いで、これが功を奏すかどうかは分かりませんが、今のkakisakasanに出来るのは人事を尽くして天命を待つことだけです。

 と言うことですので、百田尚樹さん、どうかよろしくお願い致します。

 
 ***********************************


 それでは『永遠の0』の感想を書き進めていきたいと思います。

 とにかく、いの一番にあげるのは、よく調べられたなあということ…

 巻末には当たった資料が書かれていますが、これらを全て読んで、溢れんばかりの情報を頭にたたき込んで、それを咀嚼・精査してどのような文章構成にして書いていけば良いのか…

 それを考え行うのは本当にしんどい作業です。

 その作業に対して真摯に取り組まれているのは本当に立派なことだと思いますし、この小説に対するもの凄い執念を感じました。

 何が何でも書き遂げるんだという執念を…

 物書きなんだからそれくらい当たり前だろと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実際はそうではありません。

 大して調べもせず適当に書かれる作家もいます。

 調べるのは嫌いだと公然と言っている著名な作家もいるくらいですから、資料を調べることは地道で面倒臭い作業なんです。

 戦争という題材を扱うとき、それはまず間違いなく『それによって何かを訴える』ものだと言えます。

 つまり、百田尚樹という一人の作家がこの作品によって百田尚樹の考えを訴える作品だと言えます。

 わたくしはそれを念頭に置いて読み始めました。

 この小説は、佐伯健太郎という26歳の若者の一人称で話が進められています。

 ですから、当初は彼が主人公だと思いました。

 しかし、第三章の真珠湾あたりから、どうも違うぞと思いました。

 主な登場人物は、佐伯健太郎、姉の慶子、新聞記者の高山、藤木秀一、戦争体験を語る人達、大石賢一郎、その妻である松乃、そして宮部久蔵。

 あらましは、宮部久蔵は健太郎の祖父であり、特攻隊員であった祖父の歴史を調べるために、健太郎は祖父を知っている元海軍の人達と会い、話を聞きます。

 その話を通して、戦争の悲惨さ、現在語られている一般的な事実の間違いなどを浮かび上がらせています。

 それを佐伯健太郎の目を通して描かれるのだろうと思っていたのですが、どうも違うんです。

 もし、佐伯健太郎が主人公であるならば、過去の事実を知ることで健太郎の葛藤が描かれると思うのですが、それはほとんどありません。

 では、主人公は佐伯健太郎ではなく、宮部久蔵なのか? 

 佐伯健太郎と彼の祖父であり特攻隊員であった宮部久蔵を比較対照することによって、現代の若者である佐伯健太郎の視点から特攻隊員としての宮部久蔵という人物を浮かび上がらせ描いているのではないのだろうかと…

 しかし、これもまた違います。

 宮部久蔵の歴史を知ることを目的として話が進められていきますから、一貫して登場はしますが、健太郎の視点から捉えた宮部久蔵は描かれていません。

 では、作者である百田さん自身が宮部久蔵を描いているのかと言えば、それもありません。

 宮部久蔵を浮き彫りにするのは、彼を知っている元海軍に属していた人達であり、彼等の戦争体験談を通して宮部久蔵は描かれています。

 では、それによって宮部久蔵が確固たる主人公として描かれているのかと言えば、それも違います。

 となると、この小説の主人公は宮部久蔵ではなく、彼を知る人達なのか?

 彼等が語っている内容は、宮部久蔵の事よりもむしろ当時の事実、つまり、百田さんが資料を調べて知った事実の方が圧倒的に多いです。

 この小説を読んでいると、宮部久蔵を描くことによって百田さんの考えを訴えると言うよりも、彼等に事実それ自体を語らせることを目的としているように見受けられます。

 宮部久蔵の物語を考えたとき、確かに伏線も張られていて、物語としての完結はあるのですが、それはこの小説の骨子ではないと思います。

 小説を読んだというよりは、むしろドキュメントを読んだ感じが拭えないのは歴史の事実を伝えることに重点を置いているからだと思います。

 佐伯健太郎は司会進行役、宮部久蔵は元海軍に戦争体験談を語らせるための共通の人物であり話題。

 つまり、この小説の主人公は百田尚樹さん自身ということです。

 特に顕著なのが第九章のカミカゼアタック。

 百田さんの日常の言動を鑑みれば、この九章で登場する武田さんの怒りはそれ即ち百田尚樹の怒りと受け取れます。

 ただ、間違えてほしくないのは、この構成がいけないということではありません。

 『永遠の0』には百田さんの情熱を感じます。熱意を感じます。

 ただ、それがちょっと強すぎたかなと…

 それ故に、物語を作ることよりも、直接事実を語ることに意識が傾いてしまったかなと…

 わたくしの書いた『Kill The Japanese』をある大手出版社の方が読まれたとき「事実が足りない」と言われました。

 これと対比させるのなら『永遠の0』は事実が多かったということになるのでしょうか。

 物語の最後である第十二章の流星では不思議な縁が語られて、ドキュメントよりも小説本来が持っている物語の要素が強く出ています。

 戦争の事実を正確に伝えたいという百田さんの気持ちも分かりますが、各章で登場する人物が語っている内容には結構重複部分もありましたから、それを削った原稿の枚数分を宮部久蔵の生き様に当てれば、文章も冗漫にならず、小説としての質はもっと上がったのではないかと思います。

 そうすれば、第十二章の流星の内容がもっと生きたと思いますし、読者もこの小説にもっと強く惹きつけられたのではないかと思います。

 もう2~3回読めば、更に細かなところまで気がつくことがあったかもしれませんが、でも、それはおそらく些末的なことになるだろうと思います。

 ただひとつ、文章テクニックについて…

 一人称で話を進めているのに、時々三人称の文が出て来ます。

 これは気をつけた方がいいと言いますか、編集者からの指摘はなかったのかなあと思いました。

 では、最後に…

 『永遠の0』を読んでいるとき、ある出来事が私の中で重なりました。

 それは福島第一原発の事故。

 東日本大震災で原発が破壊されて、放射性物質が漏れる大惨事になって…

 記憶が正しければ、事故発生から一ヶ月以内の事でした。

 テレビニュースだったかネットニュースだったかは覚えていません。

 東電関連の会社に入社してまだそれほど月日が経ってない24歳くらいの男性が現地に向かうんですよ。

 それを見た、確かおばあさんだったかな、

 「行くのかい?」と言ったような事を言われたんですよ。

 するとその男性は「仕事ですから」というような事を言って、あの原発のもとへ行ったと…

 それを聞いた時、本当に悔し涙が出ましたよ。

 まず真っ先に行かなければいけないのは、トップの人間だろ。

 現状把握をしなければならないのが社長の務めだろ。

 命を賭けなければならないのは、お前ら何だよ。

 でも、そんな奴らはいつもテレビカメラに向かって頭を下げるだけ。

 『永遠の0』で書かれている海軍のエリートと捨て駒にされた兵隊の関係もこれと全く同じ。

 あの戦争の時代から今日に至るまで、日本は何も変わらない。

 あなたもそう思いませんでしたか、百田さん。

 あっ、いけない、愚痴になりましたね。

 まあ、とにかく、私なりの感想を書きましたので、百田さんも『Kill The Japanese』の感想をテレビで話して頂けたら、もしくはブログに書いて頂けたらと思います。

 それでは、よろしくお願い致します。

 
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あれから6年~東日本大震災とそれにかかわる長編小説
2017 / 03 / 11 ( Sat ) 08:26:27
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 今朝の東京は晴れです。

 ホットコーヒー、飲んでます。

 おはようございます、kakisakasanです。


 本日3月11日は東日本大震災があった日です。

 早いもので、あれからもう6年が経つんですね。

 未だ東北に足を踏み入れる機会が無いので、復興の現状がどうなっているのかは分かりません。

 それなりに進んでいるとは思いますが、震災からの復興はやはり国任せでは進まないとkakisakasanは思っています。

 そこに住んでいる人達が自主性を持って進めるべきだと思います。

 だって、国任せは、結局、他人任せだから。

 でも、そのためには、制度改革が必要になります。

 『地盤下のジャングル』という小説は、リーマンショックと大阪府の財政破綻が引き金となって日本の財政が破綻、ネバダ・レポートというIMF日本管理プログラムに強制的に置かれながらも、日本列島循環政策という独自の再建プログラムによって、日本が自国の復興を図るのですが、その過程である家族に悲劇が起こり、日本列島循環政策の副産物とも言える有権者法案作成制度によって、その悲劇を乗り越える物語です。

 リーマンショックが起きたのが2008年。

 東日本大震災が起きたのが2011年。

 時代が近接していますので、当然のことながら、この小説は東日本大震災にも触れており、東北地域は道州制のもと自主的な復興を行うと言う設定になっています。

 まさに、今を語る小説だと思いますので、是非一読して頂けたらと思います。


 目次


 序章

 第一章 日本列島循環政策

 第二章 道州制

 第三章 農業政策

 第四章 南東北州

 第五章 魁市

 第六章 水の循環

 第七章 地盤下のジャングル

 第八章 有権者法案作成制度



 冒頭文


 序章

 二〇一九年現在、この日本に一体どれだけの人間が住んでいるのか、あなたは御存じであろうか。

 そう、およそ一(注1)億二千六百万人である。

 では、その国民の人口分布がかつてどのようになっていたのか、それは御存じであろうか。

 二〇〇八年当時、東京、神奈川、埼玉、千葉で約三千四百万人。一都三県で四分の一強を占めていたのである。また、近畿の中心である大阪・兵庫、中部の中心である愛知を含めると、この三地域で約五千五百万人となり、日本の人口のほぼ半数を占めていたことになる。

 日本の国土面積はおよそ三八万平方キロメートル。先に挙げた一都一府五県の総面積が約二万九千平方キロメートル。その面積は日本国土の八パーセント弱に過ぎない。

 そんな狭い地域に、日本国民のほぼ半分がこれまで暮らしていたのである。

 今にして思えば、実にいびつな人口分布だったと言える。

 いや、その当時の人々も気づいてはいたに違いない。ただ、どうにもならなかっただけなのだ。

 格差と言う言葉が流行(はや)っていたこの頃、地域格差もまた大きな問題であった。地方では若者が減り、逆に年寄りは増え、人口の減少に歯止めがかからない地方は潰滅(かいめつ)の一途(いっと)をたどっていた。生活の基盤である商店街は次々と姿を消し、廃校が雨後の竹の子のように現れた。進出している企業が日本企業であろうが外国企業であろうが関係なく、大企業の工場が地域産業の要(かなめ)となっていた地方では、その依存体質から脱却出来ず、企業衰退はそのまま地方衰退となる、一蓮托生(いちれんたくしょう)の関係であった。

 地方は、国に集まる税金を地方交付税交付金という形で国から与えられ、また都市部に集まるお金をふ(*1)るさと納税と言う形で奪い取り、何とか経済破綻を免れていた。

 しかし、産業もなければ働き手もいない地方に金を注(つ)ぎ込んだところで、果たして何が出来たと言うのであろう。

 たとえて言うなら、地方は完全な植物人間状態であった。交付金やふるさと納税と言う金を注(つ)ぎ込むのは、生命維持装置で命をつなぎ止めることに他ならなかった。

 しかし、それでも日本国民はまだこの状況をひたひたと差し迫っていた日本崩壊と結びつけてはいなかった。

 その発端(ほったん)は、二〇〇八年九月に起こった。

 そう、世に言うリーマンショックである。これにより、世界は金融崩壊に突入、火に油を注(そそ)ぐかのようにアメリカの象徴であるGM、フォード、クライスラーまでもが倒産の危機に直面した。

 当時、ビッグ3におけるアメリカ国内の新車販売はインセンティブに依存していると言っても過言ではなかった。

 インセンティブとは、自動車メーカーが自動車ディーラーに対して支払う販売奨励金またはディーラーに対して便宜(べんぎ)を図(はか)る販売奨励策のことで、特に二〇〇一年以降は、アメリカ合衆国の市場に参画するメーカーの業績を左右するようになったことから、自動車の販売戦略を語る上で不可欠な言葉となった。この時期のインセンティブは、自動車ディーラーへのリベート、低金利(無金利を含む)自動車ローンの斡旋(あっせん)、購入者へのキャッシュバック、保証期間・保証走行距離の延長・無償修理、レンタカー会社などの大口契約者への大幅値引き、社員を対象とする優遇販売枠を縁故者へ拡大すると言うようものであった。

 率直に言って、これだけのインセンティブを行えば黒字は見込めない。独立採算でインセンティブを維持する事は出来ない。

 では、それを賄(まかな)う財源をビッグ3は何に求めたのか。 

 それが金融事業である。ビッグ3はそれで得た利益をインセンティブに注(つ)ぎ込んで、何とか販売数を維持してきた。

しかし、ではなぜ、ビッグ3はこれほどまでにインセンティブに依存しなければならなかったのであろうか。自動車販売だけで利益を上げることが出来なかったのであろうか。

 その要因となったそもそもの発端は、同時多発テロにまでさかのぼる。

それまでは順調だった売上も、同時多発テロによって販売状況が狂い始めた。しかし、生産を急に減らすことが出来なかったビッグ3の各社は、抱えた在庫を処分するためにインセンティブの大盤振る舞いに踏み切らざるを得なかったのだ。

 そうして、そのような状況が続いた中、突然起こったリーマンショックによる金融崩壊により急速に資金繰りが悪化、金融事業自体が経営難に直面、その結果、財源を絶たれたビッグ3は倒産の危機と言う最悪の事態に陥ったのである。

 本来なら、経営者はそのような悪循環を断ち切るために、まずは固(*2)定費削減の努力を払うものである。しかし、それが出来なかった。

 なぜか?

 その問題こそがUAW(全米自動車労組)の存在であった…



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 地盤下のジャングル

 
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